導く法皇は彷徨う涼風

太陽の日差しが照りつける7月。

大学の定期考査がようやく終わった天音トオルは、久し振りの休日を満喫していた。

満喫…と言っても、クーラーの効いた部屋でただゴロゴロしているだけなのだが、蝉の声が煩わしいぐらいに響く炎天下の中を、わざわざ出掛ける気には到底なれなかった。

天音トオルは、小さな一軒家に祖母と二人暮らし。最近、勝手に転がり込んできた白い大きな犬も一緒に暮らしているが、ただの犬ではない。「アカシックレコード」と呼ばれる、人々の運命が記録された本を守る精霊だ。

この犬のおかげで、トオルはここ数か月、不思議な出来事に色々と遭遇してきたが、何だかんだとそんな日々にも慣れてきた。

そんなある日。

玄関のチャイムが鳴った。

この家を訪れる者なんてそんなに多くはない。

せいぜい郵便配達ぐらいなのだが、最近は何も購入した覚えがない。そんなトオルの家に最近新しくやってくるタイプの客が”未来を教えてほしい”と尋ねてくる者の存在だった。

トオルは少しの嫌な予感を抱きつつ、しぶしぶ玄関のドアを開けた。

「あなたは…ムラサキ…さん?」

そこには意外な人物が立っていた。

皇帝を司る精霊"ムラサキ"だった。

「やあ、トオルくん。久し振りだね」

「どうしてここが分かったんですか?」

「君たちだって僕の居場所、分かっただろう?君たちに出来ることは、僕にだって出来るよ」




ムラサキとは、先月初めて会った。

一緒に暮らす白い大きな犬・アベンチュリに未来を教えてほしいと訪ねてきた女性たちの恋人が、今目の前にいるムラサキだった。

未来を知るためには、何かひとつ記憶を差し出す必要があるらしい。

選ばれた記憶がムラサキとの想い出だった女性たちは、ムラサキのことはすっかり忘れ、サッパリした様子で帰って行ったのだった。

事情を問う為、ムラサキへ会いに行ったものの、その日は、さらりとかわされてしまった。




「…何の用ですか?」

「アベンチュリはいないのかい?」

「今、祖母と散歩に出かけています」

「…ふーん。じゃあ上がらせてもらうよ?」

ムラサキは、トオルの返事を待つことなく、ずかずかと家の中に上がりこんだ。

リビングにある大きめのソファの真ん中にどんと腰かけた後、何か考えを巡らせているのか、ずっと押し黙ったままだ。

あまり長居してほしくないとは思ったのだが、気まずい空気に耐えられないトオルは、冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出し、来客用の上品なグラスに注ぎ、ムラサキの目の前に置いた。

「…何の用ですか?」

トオルは、もう一度同じ質問をした。

今まで人間ならざるもの…精霊には何体か遭遇してきた。その身に宿る魔術をトオルに移したハーキマー、人々に過去や未来を告げるアベンチュリ、可愛らしい花のアイテムを譲ってくれた翠玉。どの精霊にも怖さを感じたことなどなかったが、ムラサキだけは違う。


ヘラヘラしているように見えて全く笑っていない瞳が、トオルは苦手だった。

身体が、緊張で強張っているのが分かる。

「君と話がしたくてね。君…前世の記憶をアベンチュリから戻してもらったんだろう?」

「はい…そうですけど…それが何か?」

「前世の記憶があるって、どんな感じ?」

「…それが聞きたくてわざわざ…?」

その時ふと、先月ムラサキに会って握手をした際、走馬灯のようによみがえった前世の記憶を思い出した。祖母である鈴子が前世では恋人だった。そして、鈴子こそが前世の記憶を保管することを依頼した張本人だったこと。

それらがあまりにも衝撃的過ぎて、それ以外のことを思い出そうともしていなかったが、そういえば握手をした時、何かを思い出しそうな感覚に襲われたのだった。

トオルの質問に、ムラサキは答えることなく、じっとトオルを見つめている。

「先月…貴方と会った時、何となく初対面ではない気がしました。もしかして、貴方もそうですか?だから、今日ここに来たんですか?」

その時、ガチャリと玄関のカギを開ける音がした。散歩に出かけていた鈴子とアベンチュリが帰って来たのだろう。

玄関へ出向き、「おかえり」と声をかけソファの方に戻ると、ムラサキはいつの間にか姿を消していた。来客用のグラスを見付けた鈴子が、「誰か来ていたの?」と問いかける。

「あぁ、ちょっとした知り合い。なあ…ばーちゃんは、村崎ワタルさんって知ってる?」

「え?えーっと…ああ、思い出した。ええ、もちろん。高校の時の先生よ?」

トオルとアベンチュリは、鈴子の思わぬ言葉にビックリして、顔を見合わせた。

「え、待って…先生?社長じゃなくて?」

「社長?村崎先生でしょう?私の高校の先生よ?懐かしいわあ。数学の先生で、女子学生に大人気だった先生なんだけれど、残念なことに交通事故で亡くなってしまったのよ」

懐かしそうな遠い目でそこまで話すと鈴子は、散歩で疲れたのか、少し一眠りしてくるわ、と言って自分の部屋へ行ってしまった。

「ムラサキがここに来ていたのですか?」

鈴子が2階の部屋へ上がるのを見届けてから、アベンチュリが低い声でトオルに問う。

「…ああ、そうなんだ。ついさっき、いきなり来て。前世の記憶を持っているってどんな気持ちなんだ?って聞かれた」

「それだけ…ですか?」

「いや、ムラサキが来てわりとすぐに二人が帰って来たものだから、結局あまり話は出来なかったんだ。何しに来たんだろ」

「そうですか…。それにしても、ムラサキは、鈴子さんと知り合いだったんですね。でも、交通事故ってどういうことでしょう?」

それにはトオルもかなり驚いた。

何か確信のようなものがあったわけではなく、本当に何気なく聞いてみた質問だっただけに、鈴子の返答は予想外だった。

「ちょっと整理しましょう。前世では、トオルさんは鈴子さんの二つ下でしたよね?ということは、鈴子さんが高校3年生の時…」

「僕は高校1年生だった。あ、そうか、前世でムラサキに会ったことがある気がしていたのは、高校の先生だったからか!」

「え?どういうことですか?トオルさんもムラサキと知り合いだったのですか?」

「知り合いというか…何となく、前世で会ったことがある気がしていたんだ。でも…僕も担当してもらったのかな?記憶に無いなあ…」

曖昧な返事をするトオルに、アベンチュリは意を決した様子である提案をした。

「前世の記憶…少し覗いてみますか?」

「え?いやいや、それはいいよ。大切な記憶を失うのは嫌だから」

トオルは、生まれ変わってから22年の間、前世の恋人である鈴子を思い出せず、実の祖母であると信じて疑わなかった。

それは到底、仕方の無いことではあったが、トオルはいつまで経っても、記憶が戻ったことを鈴子に打ち明けられずにいた。

思い出せなかったこと、そして鈴子を残してこの世を去ってしまったこと、そして何より、鈴子をいつまでも独りぼっちで待たせてしまったこと。自責に駆られる日々を生み出すだけの事実をトオルは拭い去ることが出来ず、鈴子に何と言って詫びれば良いのか、言葉が見付からなかった。もしも、また、鈴子のことを忘れてしまうようなことにでもなったら、きっとトオルは、一生自分のことを許せない。

「実は…本当は、記憶なんて奪わなくてもお見せ出来るんです。ただ、私への負担があまりにも大きすぎて、過去や未来を見せ続けると、いずれ自分を維持出来なくなる。それを見越して、とある方が、私に負担がかからないような術を施して下さったんです」

「そうだったのか。でも…それってつまり、記憶を失わず過去を見せれば、アベンチュリが辛い思いをするってことだろう?」

「大丈夫!トオルさんにはお世話になっていますし、ムラサキのことも気になるので」

アベンチュリはそう言うと、いつものように呪文を唱えた。トオルたちの眼前に、3D映画のような映像が映し出される。

それは、トオルの前世だった。

高校生であるトオルは、仲睦まじい様子で鈴子とお昼ご飯を食べている。

「鈴子とは…小さい時に入院していた病院で知り合ったんだ。退院してからもよく二人で遊んで…いつの間にか恋人同士になっていた」

「幼馴染、というやつですか?私とハーキマーもそんな感じでした。昔から、ずっと一緒で」

「そうだったんだな。じゃあ…ハーキマーが眠ってしまって、寂しいな」

トオルはそう言うと、遠い目で映像を見つめた。映像の中で幸せそうに笑う二人。

今も鈴子は近くにいるのに、もうあの頃のような二人には戻れない。もどかしさが瞳から涙となって溢れ出しそうだ。

まさかあんな簡単に幸せが壊れてしまうなんて、この時は想像もしていなかった。

映像は早送りのように進んでいく。

肝心のムラサキは映像の中には出てこない。

「おかしいな。もう少し僕たちに関わっていたのかと思ったけれど、先生と言ってもほとんど接点は無さそうだ。あ、この交差点…!」

その時、映像がとある交差点を映し出した。

それは、トオルが交通事故に遭った交差点だった。歩道で信号待ちをするトオル。

携帯を触っているせいで、注意力が散漫になっている。そこに、1台の車が急に突っ込んできた。トオルも、車の運転手も、即死だった。

トオルは思わず目を背ける。

「自分が死ぬ場面を見ることになるとは…結末が分かっていても、結構キツイな」

「あ…!ねぇ、ト…トオルさん、見て…見て下さい!運転手!運転手の顔!」

アベンチュリの言葉に、再び映像に目をやったトオルは言葉を失った。

自分を死に追いやった車を運転していたのは、他でもない、あのムラサキだったのだ。

二人が息を飲んだその時、急に映像が途切れ、風の渦のようなものが眼前に沸き起こった。

ムラサキのために用意した麦茶を入れたグラスが、机から落ち大きな音を立てて割れた。

「アベンチュリ。約束を守らなかったんだね」

風の渦の中から、低く禍々しい声が聞こえる。

アベンチュリに緊張が走るのが、そばにいるトオルにも伝わってくる。

渦が収まると、そこには家の天井に頭がついてしまうほどの大男が、トオルとアベンチュリを見下ろしていた。アベンチュリは恭しく頭を下げた。白髪から覗く鋭い眼光。

右手に持つのは、こん棒のような大きな杖。

あんなもので殴られたら、ひとたまりもない。

「アルマース様…」

「久し振りだね、アベンチュリ。君は私の言いつけを守らず、記憶を奪うことなく、その男に前世の記憶を見せたんだね」

「申し訳御座いません。しかし、アルマース様、そんなことより、重大な事実が判明しました。皇帝の精霊が…ムラサキが、人間の命を奪っていた、という事実です」

アベンチュリがそう告げると、アルマースはおもむろに右手に持つこん棒をアベンチュリの方にかざした。先程の渦のような風がアベンチュリにまとわりつき、真っ白な身体を締め付ける。苦しむアベンチュリを傍目に、アルマースはトオルの方をギロリと睨んだ。

威厳あふれるその体格と顔つきに、トオルはヘビに睨まれたカエル状態で、アベンチュリを助けたいのに、体が全く動かない。

「ムラサキの件はこちらで処理する。君はこの件から手を引きなさい。いいかい?…今度約束を破ったら…分かっているね?」

そう言い残すとアルマースは、煙のように姿を消した。身体に纏わりついていた風も収まり、糸が切れた凧のようにヘニャリとアベンチュリがその場に座り、咳込んだ。

「お…おい!アベンチュリ!こんな…ひどい…大丈夫か?今のって一体…」

「コホッ…ええ…なんとか…大丈夫です。今のは…法皇を司る精霊、アルマース様です。私と同じくアカシックレコードを守るお方」

「アカシックレコードを?レコードってそんなに沢山あるものなのか?」

「元々は、アルマース様が管理なさっていました。今、レコードにアクセス出来るのは、私とアルマース様だけ。アルマース様はいつも何でもお見通しで…私の師匠のような方なんです」

疲れ切った様子のアベンチュリをソファに寝かせ、トオルも隣に座った。

先程ムラサキが座っていた場所だ。

トオルは、手早く割れてしまったグラスを片付け、アベンチュリに冷えたミルクを淹れた。

「精霊は…22体いて、その頂点とも言える存在がアルマース様。私にアカシックレコードを授け、それを保管する役目を与えて下さった。私やハーキマー、翠玉はアルマース様のお気に入りだったんです。ハーキマーが持つ魔力や、翠玉の花のカッカラ…全て元になる力はアルマース様が生み出したもの。アルマース様は、私たち精霊にとって、主のような存在なんです」

「どうしてアルマースは、そんな力を皆に分け与えたんだろう?」

「この地上に存在する全てのモノが幸せになれるよう、与えた力を使いなさい、というのがアルマース様の口癖でした。アルマース様のもとは居心地が良かった。でも…力が使いこなせるようになった私とハーキマーは、もっと色んな世界が見たくなって、アルマース様の元を離れ、二人で旅に出ることにしたんです。それが、アルマース様の逆鱗に触れてしまった」

ため息をついたアベンチュリは、トオルが淹れてくれたミルクをひと舐めした。

「全てのモノの為に力を使え、というのがアルマースの教えだったんだろう?旅に出ることは、そんなにいけないことだったのか?逆鱗に触れた…って、どうして」

「アルマース様の元を離れていくのが許せなかったのでしょうか。未だにどうしてあんなお怒りになり反対されたのか私たちには分からなくて…。アルマース様の周りには、いつも沢山の精霊がおりました。翠玉も勿論ですが、他の精霊も。たかが私たち2体がいなくなったところで…と、私たちは思っていましたので」

「でも、無事に旅には出れたんだな?」

「ええ。私は出発間際に、アルマース様の魔法で犬にされましたが」

アベンチュリは大笑いしながら何故か嬉しそうにピョンっと飛び跳ね、くるりと一回転した。

「でも前に、どんな姿にでもなれるんだって言ってなかったか?」

「そうなんですよ。初めはこの姿が本当に嫌で、不便で。でも今更、アルマース様のもとに戻るのも何だか悔しくて。先生に反抗する生徒のように、私とハーキマーは二人で色んな場所へ行きました。でも、その様々な経験が私たちの力を高め、私はいつの間にか、この魔法を自力で解けるようにまでなっていたんです」

「元の姿には戻らないのか?元の姿がどんなものなのか知らないが」

「もうこの姿に馴染みましたし、ハーキマーがモフモフ大好きっ子だったので。初日こそアルマース様に怒っていましたが、2日目からは嬉しそうにモフモフしていました」

トオルがハーキマーと関わったのは短い時間だったが、モフモフ好きそうだな、と思った。そして、二人の仲の良さを初めて知った。

「そんなアルマース様ですが、私を…助けてくれたんです。調子に乗って力を使いすぎてしまって、このままだと存在が消えてしまうかも、という時、迎えに来て下さった。そして私に、運命を告げる代わりに何かひとつ記憶を取り出すことで、自身のバランスが崩れないように、と術をかけて下さったんです」

「そうか、さっき言っていたのは、アルマースのことだったんだな」

「はい。術を施して頂き、それを使いこなせるようになるまで…人間の時間で20年ぐらい、ハーキマーと離れました。ちょうどその頃、ハーキマーは鈴子さんと出会ったみたいです」

ハーキマーは、アベンチュリと離れている間に鈴子と出会い、前代未聞な無茶をした。

前世の記憶をアベンチュリに保管させ、そしてそれを元に戻すなんて出来るほどの魔力を持つ者は存在しなかったし、誰もそんなことをしようなんて考えもしなかった。

ずっとそばにいたら、きっと止めていた。

「前世の記憶を保管してくれ」と、ハーキマーがアベンチュリのもとへ頼みに来た時には、すでにハーキマーの心は決まり、魔力は発動してしまっていた。実際、そんな無茶をしたせいで、眠らなければ自身の存在を保てない状態になった。何でもお見通しだったはずのアルマースが、ハーキマーを何故止めなかったのか。

アベンチュリはアルマースを責めた。

誰かを責めずにはいられなかった。

それがきっかけで、アベンチュリはアルマースのもとをまた離れることになり、トオルのところへとやって来たのだった。

「思えば私たちは、子どもだったのかもしれない。手を差し伸べてくれたアルマース様の期待を何度も裏切り、理不尽なことで責めてしまったこともありました。でも…今回の件を見過ごすわけにはいかない。たとえ、また、アルマース様を怒らせることになってしまっても」

「ムラサキ…ムラサキは、わざと僕に向かってきたんだろうか。それとも、ただの偶然…?」

「…分かりません。それを…私たちで調べましょう。記憶を見るのは邪魔されるでしょうから、話を聞くしかありませんね」

トオルは、いよいよ鈴子に真実を告げる時が来たのだと思った。今更、自分を殺めた犯人捜しをしたところで、失った時間が取り戻せるわけではない。だが、どうして自分は18という若さで死ななければいけなかったのか。

どうして鈴子を独りにさせることになってしまったのか。ただ、純粋に知りたかった。

「まずは、鈴子に聞くのが一番てっとり早いだろう。村崎ワタルとの関係とか、当時どんな先生だったのか、聞いてみよう」

「トオルさん。実は私、鈴子さんのことでひとつ黙っていたことがあるんです」

「なんだ?」

アベンチュリが、トオルを見つめる。

「私、実は鈴子さんとお会いしたことがあるんです。一度だけなんですけれど、ほら、トオルさんの前世の記憶を預かった際に」

「そうなのか?ん?でも鈴子は全く初対面な感じだったけれど…」

「それ、ずっと不思議でした。どうして知らないフリをするんだろうって。でも、この数か月、一緒に暮らしてみて、忘れているフリなんかじゃなく、鈴子さんは本当に私を忘れてしまっていると思いました。でも…恋人の記憶を預けた相手を忘れるものでしょうか?犬だから?私、そんなに特徴無いですか?ムラサキのこと…詳しく思い出してくれると良いのですが」

アベンチュリの言葉に、トオルに一抹の不安がよぎった。アベンチュリとトオルは、急いで鈴子が眠る部屋へと向かった。

広くはない家なのに、今日はやけに鈴子の部屋へと続く階段が長く、重苦しく感じた。

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