棚引く紫を纏う夕凪

雨の日が続く6月。

昨日から響く雨音は、今朝も湿気と共にシトシトと家の中に漂っている。

天音トオルはカーテンを閉め、リビングのソファでうたた寝する祖母・鈴子と、大きな白い犬を見て小さく溜め息をついた。

犬の名はアベンチュリ。

アベンチュリが家に押しかけてきたのは、先月のこと。アベンチュリは、人々の運命の記録である「アカシックレコード」を保管している精霊なのだが、一向に帰る気配を見せず、結局そのままトオルの家に居座った。

同居している祖母・鈴子にさすがに隠し切れないと思ったトオルは、苦し紛れに「犬を飼いたい」と申し出た。

モフモフ好きな鈴子は、何も疑うことなく二つ返事で快諾してくれた。

アベンチュリはここでの暮らしに満足しているようで、今もソファでうたた寝する鈴子の太ももにアゴを乗せ、自身もウトウトしていた。

「呑気なものだよな」とトオルが笑みをこぼしたその時、玄関のチャイムが鳴った。

ドアを開けると、そこには長い髪がとても綺麗な控えめの女性が立っていた。

朝から続くしつこい雨のせいで今日はひどくジメジメしていたが、女性は真っ黒な長袖の服を着ていて、とても似合ってはいるものの、少し季節外れのように思えた。

「こんにちは。突然すみません」

「…こんにちは。えっと…どちら様ですか?」

「ここに来れば自分の未来を教えてもらえるって知人から聞いて…」

女性は遠慮がちに目をふせた。

「あ~…えっと、ちょっと待って下さいね」

トオルはそう言うと、玄関のドアを静かに閉めた。実は、大きな白い犬・アベンチュリは、人々の運命の記録である「アカシックレコード」を保管している精霊で、大切な記憶と引き換えに自分の未来を教えてくれる、いわばめちゃくちゃ当たる占い師のような存在だ。

先月、家に押し掛けてきたアベンチュリから、未来を教えてほしいと訪ねてくる者の「盾」になってくれ、と曖昧な仕事を与えられたわけだが、結局あれから来客も無かったので、具体的に何をすれば良いのか聞きそびれていた。

鈴子を起こさないようアベンチュリに声をかけ、ひとまず外で話を聞くことにした。

「可愛いワンちゃんですね」

「その、ついでにコイツの散歩も済ませちゃおうかな~って。雨なのにすみません」

「いえいえ。あそこに座りましょうか」

綺麗な笑みを浮かべる女性が指さした先の公園には、屋根付きのベンチが備えてあり、雨のせいか誰もいなかった。

屋根の下に着いた女性は、持っていた上品な花柄の傘を折り畳んだ。

その丁寧な所作から、几帳面な性格であろうことが伺える。トオルも傘を畳み、持ってきていたタオルでワシワシとアベンチュリの体を拭いた。ここからどうすれば良いんだ?とタオルで拭きながら必死で目で訴えたのだが、華麗にスルーされてしまった。

トオルは仕方なく、目の前の女性と向き合う形でベンチに腰かけた。

「それでは先生、さぁ、お願いします。私の未来を教えて下さい」

「え、先生?違う…いや違わないんですけど、あのですね、未来を知るには、とっても大事な記憶をひとつ頂かないとダメな決まりなんですよ。すみません、なんか変な怖いこと言って」

「記憶。はい、大丈夫です、お願いします」

自分でもかなり現実味の無いことを言っていると思うのだが、女性は全く狼狽えない。

予想外の反応にトオルは戸惑った。

アベンチュリに救いを求めても、全く素知らぬ顔で飼い犬のフリをしている。

「え、いや、あの、しかも記憶は選べないんですよ。怖くないですか?記憶がなくなっちゃうって。誰の記憶をなくすか分からないなんて、僕なら絶対に無理だなあって」

「そうですね。でも、大丈夫です。教えて下さい。今お付き合いしている人との未来を知りたいんです。お願いします」

「や、あのでも…記憶は選べないので、ほら、その恋人さんを忘れちゃうかもしれないですよ?忘れちゃったら意味ないので、そんな簡単に考えない方が良いと思うんですけど…」

「それでも構いません。どうか…教えて下さい」

もう誤魔化しきれない無理!と、思ったその時、白い雪のような粉が降り注ぎ、女性が急に意識を失った。アベンチュリが眠らせたのだと、すぐに理解したトオルは、女性がベンチから落ちそうになった間一髪のところで体を支え、横になる形でベンチの上に寝かせた。

「あ~ビックリした…おい、アベンチュリ!」

「もう~トオルさん、全然!盾になってない!ダメじゃないですか~もっとなんか上手いこと言って断って下さいよ~」

アベンチュリは嫌そうに、シッポをペチペチと地面に叩き付けながらトオルを責めた。

「いやいやいやいや、アベンチュリだって見てただろ?この人、全然引いてくれないんだもん!これ誰が何を言っても聞かないよ!」

「控え目に見えるのに押しが強い人でしたね」

「この人、もう今、未来を見ているのか?」

トオルが投げやりに尋ねると、アベンチュリの首輪についている本のモチーフが浮かび上がり、3D 映画のような映像を映し出した。

「いや、おい、僕は見なくていいよ。それに人が来るかもしれないし…」

「私は、人間に見せた記憶、そして引き換えに今から奪う記憶、その両方を確認する義務があるんです。付き合って下さい」

人の運命を覗き見るのはプライバシーを激しく侵害するようで気がひけたが、アベンチュリに言われ渋々映像の方に目をやった。

そこには、一人の男性とデートしている女性の姿が映し出されていた。

何かのお祭りだろうか。

二人でリンゴ飴を食べながら屋台巡りをしていた。映像がどんどん早送りされても、いつまで経っても仲睦まじい二人は、春はお花見をして、夏には海へ行き、秋は綺麗に色付く紅葉を見て、冬には温泉旅行をした。

それはとても微笑ましい限りで、何の問題も無いまま、映像は終了した。

「なんだ…この前みたいにえげつない感じかとドキドキしたけど、めちゃくちゃ幸せな未来じゃないか!良かった~。ちなみに、今回引き換えに選ばれた記憶は何だったんだ?」

「…あの男性の記憶でした」

「…え?じゃあ…まさかこの人は」

その時、女性が目を覚ました。

少しの間、呆けていたが、ようやく事態を飲み込み、顔を真っ赤にして立ち上がった。

「やだ、私こんなところで寝ちゃってた!?あ、どうもすみません、恥ずかしい…!」

目の前にいるトオルに早口でそう告げると、女性は恥ずかしそうに傘で顔を隠し、雨の中をあっという間に走り去ってしまった。しばらくの間、トオルはその場に立ち尽くした。

「…そっか…恋人のことを忘れちゃったから、ここに来た理由も一緒に消えちゃったのか…」

こんなことになってしまうぐらいなら、どんなことをしてでも断るべきだった。

トオルは心底後悔し、もう見えなくなってしまった女性に頭を下げた。

忘れることも辛いけれど、忘れられた方はどんな気持ちだろうか。

大切な人の中から自分という存在が消えてしまう。それはどれだけ辛く、怖いことだろう。

想像しただけで胸をえぐられるような息苦しさが、トオルを静かに襲った。




「…トオルさん、帰りましょう」

アベンチュリが傘をくわえてトオルの側に近寄ったその時、ふいに後ろから声をかけられた。

「あの~すみません」

先程の女性と同じような長袖の服を着ているが、印象は違い、ハキハキした明るい感じのショートカットの女性がそこには立っていた。

「未来を教えてくれる方、ですよね?」

「え…どうして…」

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