女帝「翠玉」の夢見る欠片

そう言い残すと翠玉は、あっという間に水の中へ消えてしまった。

「え、お返し!?え、聞いてないんだけど!」

「トオルさん。何事も、タダより怖いものはないと言うでしょう?」

「え、え、これ僕がお金払うの?」

「チッチッチッ」

アベンチュリは、ニヒルな表情で、モフモフの前足を器用に顔の前で左右に振った。

「私たち精霊はお金のやり取りはしません。何が見合うかは、この件が終わってから考えましょう。それより急いだ方がいいかも」

「どういうことだ?」

「あの女性も、自分の子供を刺した相手が現在のクラスメイトであることを知りました。あの様子だと何をしでかすか分かりません」

トオルは、アベンチュリの言葉にハッとした。

子供の夢を遮る何かがあれば排除する。

女性はハッキリそう言っていた。

記憶を差し出してまで未来を見たいと言ったぐらいだ。その覚悟は並大抵のことではない。

しかも相当に取り乱していたから、刺される前に刺してやる、ぐらいの考えに行き着いていても不思議ではない。

「どうしよう、早く止めないと!でも住所なんて勿論分からないしどうすれば…」

「住所は分かりませんが、子供さんの制服で小学校を特定することは出来ませんか?」

「ああ…確かに映像でハッキリと映ってたな。あの制服は…隣駅の私立の小学校だ。鈴子が通っていたから間違いない!」

深い緑のブレザーとチェックのボトム。可愛い制服が女子の間で人気な小学校だった。

「今は14時…後ろの席のあの子を学校前で待ち伏せしているかも」

「とにかく急いで行ってみよう!えーっと…自転車の鍵…どこだっけ」

「トオルさん!電車で行きましょう!」

アベンチュリに急かされ電車で行くことになった。電車の方が早いだろうからそれは良かったのだが…トオルはその選択を激しく後悔した。



「ふぁー!楽しかった。いやあ~電車というものに乗ってみたかったんですよ~!」

「アベンチュリ…僕は恥ずかしい…ぬいぐるみのフリをするのは絶対に無理があるだろ…だってぬいぐるみのでかさじゃないよ?自分の大きさ分かってる?地味に重いし…しかもブーケまで持ってさあ…どう考えてもメルヘンすぎるよ…めちゃくちゃジロジロ見られた…」

切符を買う時になって初めて、アベンチュリが犬だったことを思い出した。

タクシーにしようと言うトオルの申し出をすっぱり切り捨て「ぬいぐるみのフリをするから大丈夫」というアベンチュリの言葉に惑わされ電車に乗ってしまったのだった。

「ブーケではありません、カッカラです。あ、あの人です!いましたね」

もっと愚痴を言いたい気分だったが、今はそれどころではない。

女性は遠目から見てもかなり苛立っている様子で、小学校の門の前にいた。手に何か光るものを持っている。ナイフ…だろうか?

この距離ではハッキリと目視は出来ない。

悪い想像ばかりしてしまう。

「会えて良かった。トオルさん、先ほど教えた通りに唱えてみましょうか」

トオルは深く深呼吸をした後、翠玉から譲り受けた花のカッカラを強く握った。


”逆巻く欲望を巻き戻す心。慈悲の声は薔薇の棘を放つ盲目の言葉と変わる。翠玉の力を宿す花のカッカラよ。惜別を撫でる知恵と安らぎに、蒼亡の花を降らせ!”


トオルが唱えると、カッカラにあしらわれていた花びらが舞い上がり、女性に降り注いだ。

「な、何!?何よこの花!」

あっという間に女性の姿は花に包まれた。

そして舞い上がる花びらが落ち着く頃、その場に呆然と座り込む女性の姿が見えた。

「アベンチュリ…あの人、動かないが…」

「大丈夫です。ああ、良いものを見付けた。今のうちに頂いちゃいましょう」

アベンチュリがそう言うと、女性の首に巻かれていた綺麗な翡翠色をしたストールがふわりと舞い上がり、トオルたちの元へヒラヒラと飛んできた。女性は気付いていない。

「これを報酬として頂きます」

「え、勝手に!?」

「大丈夫、大丈夫」



その時、女性のスマホが大きな音を立てた。

「…はい。ああ、お世話になっています。え?はい、ウチの子が!?あの、今ちょうど門の前にいます、すぐ伺います!」

女性は慌てた様子で小学校に入っていった。



「あの女性…何か変わったんだろうか」

「翠玉の花のカッカラは、母性や慈悲の心を呼び覚まし、知恵と深い安らぎを授けるアイテムです。あの人は確実に変わりました」

「そうか。じゃあ、あの子も安心だな」

「…いいえ。子供の問題は母親だけが解決するものではありません。あの女性が宿す母性や慈悲の心、そして知恵を、子供の為だけに使うのか、それとも父親を含め共に考えるのか。その選択がまた、運命を大きく変えるでしょう」



しばらくすると、女性と子供が一緒に出てきた。後ろには怪我をしている様子の女の子と、その母親と思われる人が側にいた。

「改めてこの度は…息子が大変なことをして本当に申し訳御座いませんでした。また後日、ご自宅にもお詫びに伺います」

「いえいえ、そんな何度も謝らないで下さい。かすり傷でしたから。でも二度と本を投げたりしたらダメよ?」

「ごめんなさい」

あの未来だ、とトオルは気付いた。

今日起こる出来事だったのか、と驚いたが、深々と子供と一緒に頭を下げる女性は、先程までの印象とは随分違った。

「…あの未来…回避出来たのか…?」

「そのようですね」

トオルはホッと胸を撫で下ろした。

女性は、女の子たちの背中に頭を下げ続けた。そしてその姿が見えなくなった頃、子供の前にしゃがみこみ、子供の顔を撫でた。

「…今日は塾、お休みしよっか」

「え…いいの?」

「久し振りにゆっくり美味しいもの食べに行こう。パパには内緒よ?」

子供は嬉しそうに母親の腕にしがみつき、二人は仲睦まじい様子で帰って行った。

そしてアベンチュリとトオルもまた、帰路へと着いた。…帰りは徒歩で。



「なんか…丸くおさまって良かったな」

「ええ、ほんとに。勿論、全てを一気に変えることは出来ないかもしれませんが、それでもあの子供には、自分を心の底から理解してくれる母親がついています」

「理解してくれる母親…か」



トオルはふと、自分の母親のことを思い出した。祖母である鈴子から、鈴子とトオルに血の繋がりはないのだと打ち明けられたのは、つい先々月のことだった。

物心ついた時にはすでに鈴子の家にいて、『両親は早くに亡くなった、写真は無い』という鈴子の話を疑いもしなかったが、実のところは、鈴子自身もトオルの親が誰なのか、どこで何をしているのか、そもそも生きているのかさえ全
く知らないらしかった。

ただひとつの事実は、『トオルの親は、トオルを捨てたのだ』ということだけ。

自分の親には母性や慈悲の心は無かったのか。

心に冷たい孤独がじわりと湧き上がる。



「トオルさん!翠玉へのお返しを作りましょう。このストールで、翠玉のドレスを作るんです!きっと喜んでくれますよ!」

家の中に響くアベンチュリの明るい声が、トオルの意識を引き戻した。

「ドレス?いやいや、僕にそんなものが作れるわけないだろう?」

「今こそ魔法ですよ!指先でちょちょちょ~ってすると、上手い具合に針と糸が動いてくれます。さあ!練習練習!」



こうして、縫った方が早そうにも思われるトオルの不器用で地味な魔法特訓は、夜が明けるまで続いたのだった。

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