女帝「翠玉」の夢見る欠片

男の子は読んでいた分厚い本を、窓からポイっと投げ捨てた。校舎の三階から落ちたその本は、運悪く同級生の肩をかすめた。

幸い軽傷だったが、なんと男の子は自分ではなく後ろの席の子が投げたと主張したのだ。

駆けつけた母親も「学年で一番成績優秀なウチの子がそんなことをするはずがない」と言い張り、クラスの担任もまた、母親の剣幕に圧され、その子の嘘を信じた。

罪を擦り付けられた子は、次第にクラスで浮いた存在になっていった。



早送りのように進む映像の中で、中学生になった男の子は、相変わらず成績優秀なクラスの人気者。教師からの信頼も厚く、母親も成績だけを見て満足している。

だが、男の子は、人の感情に関心を持つことが出来ず、他者を犠牲にすることも厭わない子に成長してしまっていて、裏ではクラスメイトに陰湿な嫌がらせを繰り返していた。

その行為は、歳を重ねるにつれ、どんどん悪質なものへとエスカレートした。

その矛先は、同じ中学に進学した、小学生の時に罪を擦り付けた子にも向けられ、むしろ一番のターゲットにされているように見えた。

男の子は、どんどん壊れていった。



そして映像は大学受験の日になった。

医学部の入試を終え、母親と帰り道を歩く男の子を、前から歩いてきた男がナイフで刺した。

その場に倒れた男の子が訳も分からないまま見上げたそこには、小学生の時に罪を擦り付けたあの子が立っていた。

夢の中で同じ場面を見ていた母親は苦しそうに悶え、大きな悲鳴をあげて目を覚ました。

そして、「小さい時のことをいつまでも根に持つなんて許せない!」などと甲高い声でわめき散らしながら、ものすごい剣幕と勢いでトオルの家を出て行ってしまった。



「あ!ちょっと!もう…ほんと嵐みたいな人だな。しかし…ひどい未来だ…」

トオルは、女性が帰り際に倒していったダイニングテーブルの椅子や玄関の置物などを、ゆっくり片付けながら呟いた。

置物は割れてしまっていた。

「貴方は特別な子だ、と大切に愛情をかけて育てるのは、とても微笑ましく素晴らしいことだと私は思います。けれど、一歩外に出れば、誰も特別な人間なんていない」

アベンチュリは、トオルが直した椅子の上にピョンっと飛び乗った。

「”成績が良い”というのも才能の頂点ではなく、数ある才能のひとつに過ぎません。”貴方は特別だから何をしても許される”という理性を失うほどの愛情は周りの人間を襲い、最終的には自分自身を傷付ける刃になる」

「理性を失うほどの愛情か。何かの本で読んだ。親バカと呼ばれる人たちは、例えば学芸会で自分の子が台詞も無い木の役でも”なんて可愛い木なんだ!”って喜んで写真を撮るらしい。でも愚かな親は、”どうしてウチの子が主役じゃないのか”と教師を責めるんだ」

「親バカ、という言葉は、最大の褒め言葉なのかもしれませんね」

「そういえば、この未来を見ることと引き換えに選ばれた記憶は何だったんだ?」

トオルは、ダイニングテーブルを挟みアベンチュリの向かいに座り尋ねた。

あの様子だと、子供の記憶を失うことは回避できたように見える。

「あの女性の母親の記憶でした。もう亡くなっておられるようですが、あの女性もまた、本当の愛情に薄い幼少期を過ごしたみたいです」

「そっか。ところで…この未来…何とか変えられないだろうか。知ってしまったからには何とかしたい。傍観者にはなりたくないんだ。僕に出来ること…何かないか?」

「トオルさん?まさか、助けたい、と願うのですか?あんな傲慢な女性を」

「女性を助けたいんじゃない。あの人の子供を救いたいんだ。それに後ろの席のあの子も」

たとえどんなに辛い理由だったとしても、人を傷付けて良い理由には決してならない。

そんなことは分かっているが、誰からも信じてもらえず、どんどん孤独になり、ずっと嫌がらせの標的にされ続けた後ろの席のあの子のことを考えると、ひどく胸が痛んだ。

あの子だけじゃない。

女性の子供に嫌な思いをさせられた子は、映像を見るだけでもかなりいた。

「…いいでしょう。では…白磁のティーカップ…ありますか?少し深みがあればお皿でも構いませんが。あとは綺麗な水が欲しいですね」

何に使うのか分からないまま、トオルは食器棚にしまってある新品のティーカップを取り出した。真っ白で装飾も無いシンプルなものだが、形が洒落ていてとても高級そうに見える。

「あぁ、良いですね。この件が終わったらこのティーカップでお茶したいですね~」

そんな犬の姿でどうやって飲むんだ、と思わず言いそうになったが、トオルはとりあえず言われるがままに準備をした。

冷蔵庫に入れてあったミネラルウォーターをカップに注ぎ、最後に、魔術師の精霊であるハーキマーが眠る真っ青な石を、カップの底に静かに沈め、カーテンを閉めた。

「では、トオルさん。目を閉じて集中して下さい。先ほど教えた言葉を唱えてみましょうか」

「…よし、分かった」

トオルは、カップの上に手を翳し唱えた。

”過去は過ちを閉ざす扉。期待値は来たるべき時を経て現在となり、空想の果てに未来創造の言葉を翳す道標を示す。現実を導く汝は我の願いを叶えし者。此処に姿を!”




瞬間、ティーカップに入れた透明だったはずの水が深い緑色に染まり揺らめいた。

カップに穴があきそうなほどの渦巻きとなった緑色の水が落ち着いた頃、翡翠色の衣をまとった手のひらサイズの可愛らしい少女が、水の中からゆっくりと出現した。

女帝を司る石の精霊・翠玉(スイギョク)だった。




「ハーキマー!久し振りー!って…何よアンタ、誰なのよこのおっさんは」

小さな少女は、ご機嫌な様子でカップの縁に座って足をパタパタさせたが、辺りを見回しトオルを見付けるや否や思いっきり顔をしかめた。

「おっさん!?僕まだ18なんだが…」

「あらやだ、ごめんなさい?だって~、久し振りにハーキマーが呼んでくれたと思ったらおっさんなんだもの!ビックリするじゃない!」

「だから、おっさんじゃないって!」

二人のやり取りを遮って、アベンチュリがコホンと咳払いをする。

「あらアベンチュリじゃない。貴方もいたのね?ハーキマーは?」

「ハーキマーは眠っています。貴方を呼び出したのは、そこにいるトオルです」

「はあ?人間の分際で私を呼び出すなんて有り得ないんですけど!私、帰ります」

水の中に戻ろうとする翠玉を、アベンチュリが必死で引き止め、事の経緯を説明した。

トオルには、翠玉が今回の件で何の役に立つのか、まだ検討もつかない。

「ふーん…その子供たちを助けたいって願いが私を呼び出したってわけね。中々スジがいいじゃない。分かったわ。私の『花のカッカラ』を1本あげてもいいわよ」

「花のカッカラって?」

「ちょっとアンタ、私を呼び出すなら勉強ぐらいしておきなさいよ!私が持つ『花のカッカラ』は、母性を宿す錫杖なの。これを使えば、その女性は救われるかもね」

そう言って翠玉は、自分が手に持っていた、沢山の花があしらわれたブーケのような可愛らしい杖を、トオルに差し出した。

「女性を救いたいわけじゃない。子供たちを助けてあげたいんだ」

「子供を助けるためよ。アンタ、説教でもするつもりだったの?それなりの言葉を並べれば子供は一時的には言うことを聞くかもしれない。でもそんなの、付け焼き刃でしかないわ」

「うっ…じゃあ、どうすれば…」

「根本的な原因を何とかしましょ?それが親。子供にとって親の影響は大きい。小さい子なら尚更。私のカッカラは、女性に宿る母性や慈悲の心を、最大限に引き出すことが出来るの」

「良いこと悪いことの区別を教えること。そして、母親としての見栄やプライドの為ではなく、お子さんの意思を尊重し心の声に耳を傾けること。決して簡単ではありませんが、母性や慈悲の心がきっと、大きな助けになります」

トオルはまだ半信半疑のまま、翠玉からカッカラを受け取った。ブーケのような杖を持つのは、少し気恥ずかしい。

「貴方の願いが私を呼び寄せたことに、必ず意味があるんだからね。まあ頑張りなさい。お返し、楽しみに待ってるからー!」

そう言うと翠玉は、あっという間にカップの水の中に消えた。不思議なことに、緑色に染まった水は、元の無色透明に戻っていた。

powered by crayon(クレヨン)