女帝「翠玉」の夢見る欠片

天音トオルは悩んでいた。

…この犬の扱いを。

今、目の前に横たわるモフモフの大きな犬の名は『アベンチュリ』。ただの犬ではない。

女教皇を司る石の精霊だ。

このアベンチュリから前世の記憶を受け取ったトオルは、自分が前世で若くして亡くなったことや、前世の恋人である鈴子が、自分をずっと待ってくれていたことを知った。

そしてひょんなことから、前世の記憶と共に、ハーキマーという精霊から魔力を授かるハメになったわけだが…

使う場面も無く、また使い方も分からないまま、早くも一か月が経とうとしていた。

魔力を持っているという摩訶不思議な事実さえ忘れそうになっていたある日、このアベンチュリが家に押し掛けて来たのだった。

「ということでトオルさん、私の言っていること、分かって頂けましたか?」

「いや全然分からん」

「だーかーらー、私が持つアカシックレコードを見せてほしいと人間だったり人間じゃなかったりが来るんです。その盾的なアレになって下さいって言っているんです」

「その盾ってのが分からん。見せてあげればいいだろ?ケチケチせずに」

アベンチュリの首輪についている本のモチーフには人々の運命が記されていて、それはいわゆる『アカシックレコード』…と呼ばれているらしい。確かに、トオルだって自分の運命がどうなるのか…興味はある。もしも知っていれば、前世でだって、もう少し長く生きることが出来たのだろうか、とトオルは思った。

「そんな簡単な話ではないのですよ。あ…ちょうど良いところに依頼人が来ましたね。実際に見てもらった方が早い」

アベンチュリがそう言ったと同時に、玄関のチャイムが鳴った。出て下さい、と言わんばかりにニコニコしているモフモフに促されて、トオルは渋々、玄関のドアを開けた。

立っていたのは、30代ぐらいだろうか。

しつこいぐらいの厚化粧が印象的な、少しふくよかな女性だった。媚びることなど決してないのであろうその尊大な態度に、トオルは思わず顔をしかめ委縮した。

「あなたが噂の占い屋さん?ここに来れば未来を教えてくれるって聞いてわざわざ来たのよ。ねえ、中に入れてくださる?」

「占い?いや、僕は…」

挨拶もなく一方的に押し切られる形で、まだいいと言ってもいないのに、女性はズカズカと家の中に上がりこんできた。

この人といい、アベンチュリといい…今日は色んな人が家に押し掛けてくる一日だ。

一緒に住んでいる唯一の家族である鈴子は、定期的な検査入院で明日まで家にいない。

タイミング的には良かったな、とトオルは心底ホッとした。余計な心配はかけたくない。

家にあがった女性は、リビングの中央に立ちキョロキョロしていた。不信感を隠さない表情は、あまり気分の良いものではない。

トオルは少し距離をとった。

「占い屋さんというわりに…庶民的な普通の家なのね。本当に占えるわけ?」

「運命を告げるのは私です。姿はお見せ出来ませんので、声だけで失礼致します」

女性の挑発的な物言いに、思わず反発しそうになったトオルを、リビングにある大きなソファの陰から声を発したアベンチュリが遮った。

「え?どこからしゃべっているの?」

依頼人の女性がソファの方を見に行こうとしたので、トオルはひとまず少し離れたダイニングテーブルの方に腰掛けるよう促した。

犬がしゃべる姿を見せてしまえば、この女性は騒ぎ立てるに違いない。トオルは半ば無理やり女性を腰掛けさせ、「ここで占い師とお話し下さい」などと言って適当に話を合わせ、アベンチュリと女性のやり取りを見守った。

「私ね、子供がいるんです。来年、中学生になる男の子。この子をね、お医者さんにするの。私の子ですもの。なるに違いないわ。でもね、もし、この子の夢を遮るような何かがあれば、私が排除しないといけない。親ですもの。何でもするわ。その為に未来を知りたいのよ」

女性はまくしたてるように話した。

「貴方の未来ではなく、お子さんの未来を知りたい、ということですね。お子さんも医者になりたい、と言っているのですか?」

「ええ、勿論よ。小さい頃からずっと、貴方は医者になるべく生まれてきたのよ、って教えてきたの。あの子は賢い子。特別な子なの」

「…分かりました。未来をお教え出来ますが、それにはあるものが必要です」

「ふんっ、お金でしょう?いくらでもお支払するわ。お金ならあるんだから」

横で静かに聞いていたトオルは、本当に感じの悪い女性だな、と心底思った。

「…お金ではありません」

「なに?タダなの?」

「頂くのは…貴方の『記憶』です」

部屋の中が一瞬静まり返る。

「記憶…?」

「ええ。記憶です。貴方の大切な記憶をひとつ頂きます。どの記憶を差し出して頂くか、選ぶことは出来ません。もしかして…お子さんの記憶を失うかもしれません」

「はあ!?馬鹿にしているの!?子供のことを忘れるなんて冗談じゃないわよ!」

「お子さんの記憶では無い可能性も勿論あります。ですが私にも選べません。貴方にとってはつまらない記憶かもしれない。賭けるか賭けないかは貴方次第です」

アベンチュリが『そんな簡単な話ではない』と言った意味はこれか、とトオルは思った。

子供の運命を知ったものの、もしも肝心な子供との思い出や子供への愛情を忘れてしまっては全く意味が無いし、大切な人の記憶を失うかもしれないのは、とても怖い。

自分なら絶対に「見ない」という選択をするだろうな、とトオルは思った。

だが、女性は違った。

女性はしばらくの間、ブツブツ言いながら狼狽えているように見えたが、間もなく決断したらしく、「私、昔から人よりも運が良いのよ。きっと私なら大丈夫だわ」などと言って、子供の運命を見ることを選択した。

アベンチュリが「承知しました」と応え小さく何かを呟くと、女性の上にハラハラと白い雪のような粉が降ってきた。

瞬く間に、女性はダイニングテーブルに突っ伏すような形で意識を失った。

それを見計らったように、ソファの後ろからアベンチュリがひょこっと顔を出した。

「お…おい、アベンチュリ…気を失ったぞ、この人、大丈夫なのか?」

「大丈夫、眠っているだけです。今、夢の中でお子さんの未来を見ています」

「子供の未来か。やっぱりお医者さんになっているんだろうか?」

「…トオルさんにも見せて差し上げましょうか。あの女性のお子さんの運命を」

戸惑うトオルの返事を待つことなく、アベンチュリの本のモチーフがまた浮かび上がった。

そしてそれはまるで3D映画のように、気を失った女性の頭上に映像を映し出した。

そこには小学生ぐらいの男の子が、休憩時間のように見える教室で、誰とも遊ぶことなく、何かの本を読んでいる映像だった。

医者になる、と言っていたぐらいだから、休み時間まで勉強しているのか、とトオルは素直に感心した。だが、次の瞬間。

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