女教皇アベンチュリの憂鬱

『人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦(アシ)にすぎない』

フランスの哲学者パスカルが残した言葉を、アベンチュリは思い出していた。

私たち精霊にとって人間は、か弱い存在。

それは確かに野に生える草のごとく脆弱。

そして不安定だ。

自分に与えられた、人間の運命や過去の魂の歴史を知る能力など、何の意味があるのか。

知ったところで、全てを救えるわけではない。

自分は一体、何の為に存在するのか。

たまに分からなくなる。

パスカルの言葉は、『しかし、それは考える葦(アシ)である』と続く。

トオルの選択が幸せな道へ続くことを、アベンチュリは心から願った。




「ハーキマー、久し振り。ん?この犬は?」

「あぁ、こいつはアベンチュリ。女教皇を司る石の精霊だ。見た目はモッフモフだが、結構スゴイやつなんだぞ」

「女教皇…ってなんだ?」

「教皇というのは、カトリック協会の最高指導者のことだな。日本でいうところの…神に仕えるもの。神官みたいなものだ」

目の前のモフモフ犬から威厳のようなものは感じられなかったが、時折、月の光を受けて輝く銀色の毛並みと、妙に落ち着いた面持ちが、確かにただの犬ではないことを物語っている。

「ふーん…どうも、天音トオルです…って言っても分からないか」

「こんばんは、トオルさん。初めまして、アベンチュリと申します」

「あ、しゃべるんだ!ビックリしたぁ…こ、こんばんは、初めまして…」

「トオル。ひとりで来たのか?」

あと1時間でトオルは18歳になる。

つまり、前世で亡くなった歳だ。

1時間後の12時。

それがトオルに記憶を戻す約束の時。

前世の記憶は誰にでも戻せるものではないし、いつでも戻せるわけでもない。

祖母である鈴子は、勿論それを知っている。

「なんだか分からないけれど、心がザワザワするんだ。気が付いたらここに来ていた。自分でもよく分からないんだ」

「突拍子もない話で恐縮なのですが…貴方の前世の記憶を私が保管しているんです。今日はそれを貴方にお返ししに来ました」

「いやほんと突然!前世なんて言われても!でも…いつも何かを探しているような、大切なことを忘れているような…僕だけが世界から切り離されたような感覚をずっと持っていた。これは…前世の記憶が無いからなのか?」

「人間は誰しも、生まれた瞬間は前世の記憶が残っているんだ。だが、日が経つにつれ新しい記憶が上塗りされていって、物心がつく頃には、前世の記憶は人間を構成するひとつの素材へと変化するんだ」

お前にはそれが欠けているんだ、と、ハーキマーは小さな声で苦しそうに呟いた。




同じ頃、トオルがこっそり抜け出した自宅では、祖母の鈴子が昔のことを思い出していた。

12歳の頃、母が骨折をしてあの病院に入院した時、10歳だったトオルに出会った。

重い病を抱えているせいで外に出られないトオルの病室へ遊びに行くことが、いつの間にか鈴子にとって一番の楽しみになっていた。

中庭で不思議な少女、ハーキマーに出会ったのもこの頃で、トオルの病室から見える中庭の咲かない桜を、『咲かせてほしい!トオルくんに見せたいの!』という鈴子のささやかな願いを、ハーキマーは難なく叶えてくれた。

それを機にトオルは、日に日に元気になり、手術も無事に成功をおさめた。

退院してからも、鈴子は毎年、トオルと二人で病院の桜を見に行った。

ハーキマーは、トオルが一緒だったせいなのか、いつも姿は見せてくれなかったけれど、咲かないはずの桜が毎年咲く事実は、暗にハーキマーの存在を主張していた。

大好きだった。

桜も、トオルも。

なのにトオルは、鈴子をおいて逝った。

つい感情的になり、トオルが生まれ変わっても自分のそばにいることを願ってしまった。

我が儘だった。

傲慢だった。

だけど。

今日は前世の記憶を取り戻す約束の日。

38年間この日を待ちながら、何故か鈴子はトオルに何も告げなかった。

祖母と孫。

あの頃と関係性は変わってしまったけれど、鈴子は自分が、今でも十分幸せを感じていることに、気付いたのだった。

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